宝物・名所紹介

御本尊

阿弥陀三尊座像(二尺五寸)


画像1


画像2

画像2・御首は『往生要集』を表した源信(恵心僧都)作
ふくよかで穏和な表情をし、西方浄土を願う衆生を遍く救い取ろうとされる慈悲の広さ大きさを表しています。結跏跌坐をされ手は阿弥陀の定印を結ばれています。大蓮寺八世鏡譽上人(正徳3年《1713》寂)代に安置されたものです。

画像1・向かって右が慈悲の力によって人々を救って下さる観音菩薩様、
左が智慧の力によって人々を救う勢至菩薩様です。

本堂内三尊像両脇には、向かって右が善導大師像、左に法然上人像が安置されています。

子育延命地蔵堂

この子育延命地蔵は、大蓮寺二十三世玄譽上人が富士山頂で白単衣にて三年間の行を終え、この勤行に酬いて大正2年(1913)増上寺より、赤間川(現:新河岸川)を船で運ばれて来ました。玄譽上人は講談も行っており、浅草の芸人たちとの親交が深く、昭和36年(1961)のお堂の落慶法要には玄譽上人が亡くなり12年が経つにもかかわらず、落語家、講談師たちが寄付をし関係者がお祝いに駆け付けました。赤い昇り旗には、お檀家さんの子や孫への思いが込められています。

聖徳太子孝養像

父、用明天皇の病気平癒を願う香炉をもった17歳のお姿です。とても優しいお顔をなさっています。江戸時代の作と思われます。『新編武蔵野風土記稿』には、境内に「太子堂」があった記載があります。現在は客殿に安置されています。

「八百屋お七」手習いの師・藤田貞陸のお墓(1646~1746)

藤田貞陸は、浄瑠璃や文楽で上演されている、
「八百屋お七」の手習いの師です。


正面


国立国会図書館蔵 HP画面
(複製には国立国会図書館の許諾が必要)

藤田貞陸について

藤田貞陸は俗名を藤田佐助といい貞陸は俳名です。浪人して江戸に住んでいた頃、お七を教えました。川越では秋元侯の家臣で、俳人としても著名でした。百歳まで生き、それを賀して刊行された『鶴の遊び』には江戸、京都、大阪をはじめ川越の俳人総勢150名が登場します。またこの本にはお七に天和年間ごろ手習いを教えたことが記されています。
川越の地誌『三芳野名勝図会』享和3年(1801)に大蓮寺の項に以下の記載があります。

「老樹翁貞陸居士之墓
延享三丙寅年七月三日卒行年百歳

 

うたかたのあハれとばかりかつ消て
辞世 かへれば元の水にぞ有ける
過去のしや今ハ一筋糸すゝき

 

貞陸翁ハ、秋元侯藩中、俗藤田佐助と云。
貞徳門の正統にて、俳諧をよくす。若き時
浪人して、江戸に有。其頃、八百屋お七が
手習いの師たり。彼少女ハ、犯罪之婦、憚あ
りといへども、戯場等に名高く、普く児女の
の知る所なれバ、しるす。」

紀行家の竹村立義も『川越松山巡覧図誌』(文化15年《1818》)で貞陸の墓参の様子を記しています。
さて、なぜ手習いの師がこれほど有名になったのでしょうか?それは、ちょうどお七が大罪を犯した16歳の時、貞陸が36歳で教えていたことからでしょうか。貞陸の情緒豊かなところがお七に影響を与えたか、お七に何か相談を受けたか想像することも出来ます。
教え子の処刑は師にとって辛いものであったことでしょう。

徳本上人 御化益念仏霊場碑

江戸期の終わり、過酷な苦行を重ね、全国を行脚し多くの熱烈な信者を持った念仏の行者、徳本上人が、当大蓮寺に文化14年(1817)当山十六世僉譽上人代に来寺しています。徳本上人60歳、亡くなる一年前の最後の旅でした。11月6日に来寺した後11月7日~9日念仏会を行い10日には赤間川(現:新河岸川)水死亡霊施餓鬼放生会を修行しています。大蓮寺西を流れる新河岸川は江戸期は運搬にも利用されるほどの水量で、水害も多かったそうです。


大蓮寺西を流れる新河岸川


徳本文字といわれる
六字名号碑:徳本の名と花押


右側面

徳本上人略年譜

宝暦 8年(1758) 0歳 和歌山県日高町で誕生 俗姓田伏三乃丞
宝暦12年(1761) 4歳 友達の急死に遭い無常を感じ、母に諭され念仏を唱え始める
安永 2年(1773) 16歳 旅の僧から『一枚起請文』を授かる
天明 4年(1784) 27歳 財部村往生寺で得度を受け出家する 一日一合の豆、麦粉を常食し、念仏を唱え続ける 近在各地で苦行
享和 元年(1801) 44歳 摂津勝尾寺松林庵に入る 紀州、江戸を巡錫
文化11年(1814) 57歳 増上寺典海の招きで小石川伝通院に入る 関東一円 信越、東海を巡錫
文化14年(1817) 60歳 小石川一行院に入る 杉並高井戸(長泉寺)川越(見立寺、大蓮寺)上尾(馬蹄寺、十連寺)八王子(大善寺)などで化益を行う
文化15年(1818) 61歳 小石川一行院にて寂す